九鬼家

九鬼嶋之助家

足利幕府も四代将軍の義持が将軍としての威厳を保っていた応永31年(1424)のことです。熊野灘に強力な水軍をもち、阿田和から九木・行野までの16か村を領した大将に、有馬和泉守忠永があります。この人は新宮の熊野別当家の榎本氏から出たのですが、有馬の二つ石(熊野市)に築城してから、榎本の姓を有馬氏と変えました。

それから戦国の世となり、有馬家の当主は和泉守忠親でしたが、この忠親に子がなかったため、甥の忠吉を邪魔にし、遂には切腹させてしまいました。

 

当時新宮は七上網の時代でしたが、天正二年(1574)突如として堀内氏虎があらわれ、七上網を手に入れてしまいました。この堀内氏は南北朝時代に楠正行と共に戦って討死した大和の豪族貴志衛門正臣の後裔です。

堀内氏虎の子の氏善は所領拡大のため再三有馬氏を攻めましたが、なかなか強くて落とせません。ところが有馬家にとって不運だったのは、忠親が没し孫三郎も25才で若死したことです。堀内氏善はこの期を逃さず有馬氏と和を講じ、自分の弟の楠若(のち主膳)を有馬家の養子に出して跡を継がせました。

 

堀内氏は労せずして有馬氏の所領を手に入れたわけです。堀内氏が南牟婁郡、北牟婁郡を完全に手中にした天正10年(1582)の翌年、粉本目代(相賀代官)に浜田吉祥坊、尾鷲目代として早水豊後允、九鬼目代として有馬中務、賀田目代として榎本三左衛門をおきました。この有馬中務は若死した孫三郎の弟といわれますから、有馬和泉守忠親の晩年にできた子でしょう。中務が長じたころは、すでに堀内家からきた有馬主膳の代で、中務の娘が主膳の妻となったため中務は堀内家の部将として重んぜられ、九鬼目代(代官)に任ぜられたわけです。文禄元年(1592)の朝鮮の役に中務は堀内家の九鬼目代として手勢と共に渡鮮し、大いに武功をたてました。

 

有馬中務の没後、その子の権平があとを継ぎましたが、慶長5年(1600)関が原戦のあと浅野幸長が紀州藩主として入部し、慶長8年有馬権平は九木浦庄屋に任命されました。そのころから権平は有馬の姓を九鬼と替え、名も嶋之助忠房と改めました。

江戸に入ると異国船が近海に出没しはじめましたので、紀州藩は天和2年(1682)九木浦庄屋の九鬼嶋之助忠房を、九鬼崎の船見番と常燈場番に任命し、給米として15石を給しました。

そのあと天和5年に紀州の藩主は浅野幸長から徳川頼宣に交替しましたが、宝永4年(1707)に嶋之助忠房が没しますと、その子隆好(のち嶋之助)が常灯場、隆好の子幸隆(のち嶋之助)が船見番に任命され、切米五石ずつを給されました。この船見番・常灯番は世襲化し、代々九鬼嶋之助家が任命されました。

 

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