南北朝時代中頃の正平元年(1346)に、佐倉中将藤原隆信公が北朝方の仁木義長に攻められ、四日市奥の佐倉を棄てて九木浦へ移住してきました。この藤原氏の祖は中納言藤原隆家ですが、隆信は吉野南朝の宮廷に仕え、官位は中将であったため、佐倉へ移住してからは佐倉中将と呼ばれました。九木浦へきてからは藤原姓を改めて九鬼氏と称し、直ちに築城すると同時に水軍を養成しました。
二代を継いだ隆治の長男で、中和一由氏遺稿集によれば、年少のころ吉野の南朝に仕え、宮内少輔に補されていました。父の隆信が老境に入ったので九木浦に帰り、城の西北に天満宮を創建し、五人張りの弓と筋を奉納したといわれます。
三代を継いだ隆房も幼少の頃は南朝に仕え、刑部少輔に補されていましたが、南北朝合体のあと九木浦へ帰りました。隆房には二人の男子があって、長男の隆長も南朝に仕えて宮内大輔に補されていました。次男の隆良は波切に進出して築城し七島を領しました。これが九鬼家の第一分家です。九木浦に帰って四代を継いだ隆長も、弟の隆良の波切進出に際しては、総力をあげて後援したことは言うまでもありません。
五代を継いだ光長は剛勇で智略に溢れていました。永享年中(1429~40)尾張三河の海賊が、熊野灘の沿岸にまで来襲し掠奪し、人々が家業を棄て山中にこもったとき、光長は軍船数隻をひきいて攻めたて、その海賊どもを滅ぼしました。
そのあと政長が六代を継ぎ、政長の弟の光信が九鬼家の第二分家の祖となり、九木浦で宮崎姓を名乗りました。七代を継いだ政隆は宮内少輔志摩守に任ぜられています。
八代が浄隆で、第一分家が波切から加茂岩倉(鳥羽市)の田城に進出したとき、浄隆は後顧の憂いのないよう波切城を守りました。天文元年(1532)に一向宗の一揆が北畠国司の居城を襲ったとき、浄隆、次男光隆、三男嘉隆が、兄の澄隆は田城の城主となり、弟の嘉隆の娘が堀内氏善の妻となったため、九鬼勢は三鬼氏を棄てて引き上げ、三木城は怱ち堀内氏の手に落ちました。
天正6年織田信長の本願寺征伐のときは、九鬼光隆・嘉隆の水軍をひきいて進撃し、大阪湾において敵船30余隻を捕獲し、また続いて尾張の内海・大野の海賊を平定して武功をたてましたが、この時代が九鬼水軍として最も華やかな頃で、向うところ敵なく戦えば必ず勝つという状態でした。
九鬼家十代は恒隆がつぎ、慶長8年(1603)傷みの甚だしかった九鬼城は取り壊されました。十一代が昌隆で十二代を義隆がつぎましたが、この頃は徳川家の世も平和となり武器を手にすることもなく、義隆は医業を修めて家業としました。
十三代の豊隆も名医高木見利(見理)に学んで医業をつぎ宮内と称しました。これは九鬼家の先祖に南朝より宮内少輔などに補せられた人が多かったためですが、この故に人々はこの家を「宮内家」と呼びました。
九鬼宮内は当地方きっての名医として有名でしたが、そのあと九鬼家は立伯・右京・右膳と名医がつづき、わざわざ船で診察を受けにくる他所の人も多かったといいます。