九木の藩営捕鯨

熊野灘での捕鯨は、太地浦(和歌山県太地町)から始まったといわれている。

九木浦では、「九木庄屋記録」に、延宝2年(1674)に、座頭鯨子持を突いて捕ったとある。「元禄、宝永、亨保」の江戸前半ごろにも記録がある。このほか早田、須賀利、島勝、白浦、海野などでも捕っていたという。いずれも「突き取り」であった。

その後、太地浦で「網取り」による捕鯨が考案され、企業的捕鯨の高利益は、他の地域にも影響を与えた。紀州藩もそこに目をつけ、藩営捕鯨を九木浦で始めることになった。宝暦4年(1754)の9月のことである。

 

勢子船(追い船)12艘、双海船(網船)6艘、持双船(運搬船)2艘、ちろり船(小網船)2艘を用意、水主は九木だけで足りず、木本組(二木島、甫母、遊木他)82人、尾鷲組(九木、早田、須賀利他)40人、相賀組(引本、矢口、渡利他)16人、長島組(島勝、白浦、海野他)54人、計192人が、動員された。

これら海上労働者の他に、陸上労働者として、目代(下役人)1人、別当(元締長)1人、こぶ頭(道具作り兼用)1人、日雇帳簿係(賃金支払用)2人、漁店係(魚肉指図係)2人、釜の後(採油場係)2人、奥こぶ(捕獲後世話係)5人、魚切親父(さばき割出し包丁人)1人、本魚人(さばき方現場人)3人、網指し(ろくろ縄などの世話役)3人、飯たき3人、沖荒見、山荒見(漁場見張り役)7人がいて、総勢250~300人が働いていた。

設備として、大納屋1軒、網蔵1軒、船小屋5軒、網工納屋1軒、釜納屋1軒があった。

1ヶ月の賃金は、「水主」23匁、「羽差」50匁で、地下網での賃金より低く、差額は各組で補償をしていた。このことは、各組の負担額を招き、地下網の労働力の不足も招き、嘆願運動も出てきた。

 

収益は、そこそこにあったが、明和6年(1769)には500両の赤字となり、16年間で廃業となった。

九木神社の「九木浦鯨方勤人中」とある献灯、「鯨場」という地名は、当寺の名残である。

※参考文献-尾鷲市史